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萌えアニメは量産すべきなの?

 どうも! 「おたくの時間」の幻の三人目です!

 萌えアニメって増えてきたと思うんだよねぇ~
 これって、世間のオタク達が「萌えアニメ」を欲してるということなのかなぁ?

 でも、今の客層だけ満足させるだけでいいのかなぁ?

 これって、「知的客層を逃したり」「初老オタクを増やして萌えのハードルを上げたり」デメリットが多いんだよねぇ~
 もっと幅広い客層をアニメの虜にするなら「萌えアニメ」だけじゃだめだと思うんだよね~

 みんな、誤解しないでね!「萌えアニメ」を批判してるんじゃないんだよ~ ただ、「萌えアニメ」と「その他のカテゴリーのアニメ」を両立させたほうがいいと思うんだぁ。
 そうすれば幅広い客層をアニメの虜にできるでしょ?

 これからどんなアニメが出てくるか楽しみだねぇ~
 アニメ業界・客層がどうなるかゎくゎくするよ~

 じゃあこれで終わりぃ~ 幻の三人目の考察でしたぁ。
 

メディアとアニメの関係性

黒澤映画を観ていると……

 ぼくはアニメを人生の足しにすると決めたので、演出はいろいろと知っておきたいのだけれど時間が無い。
 黒澤映画はぜひ見てみたい。「七人の侍」(あれって黒澤映画だよね?)ぐらいしか知らないんだけど。最近の映画はテレビで放送されるのを待って、いろいろと見ている。ただ、古典はまったくわからない。監督も「世界の黒澤」しか知らない。
 どうしたものか。

 話は変わるが、今、ぼくが使っている国語の教科書に「メディアを学ぶ」というのが掲載されている。これによると、イギリスでは国語の授業に「メディア」についての授業を取り入れているらしい。
 

 悪く言えば“自分の価値観を押しつける”教育者で、現在の教育現場ではあまりよくは思われないでしょうが、俺は好きな先生でした、たぶん。少なくとも20年以上も憶えてるんですから……。
 その女先生がある日、何を血迷ったか黒板に“影武者”“乱”と書いて、一方的に


 黒澤明の芸術について!


 を熱く語り始めたんです。完全に彼女の趣味の話にクラス全員が1時間つきあわされたわけ……。今考えても我々団塊ジュニア世代に、しかも小学生に向かって黒澤の話をしても、生徒一同キョト~ンとなるのはあたりまえでしょう。



 自分の趣味を押しつけてはないだろうが、イギリスではこういうことをしているのかもしれない(まぁ詳しくはCMの意味などを教えているらしいですけど)。
 小学生からメディアのことは教えなくてもいいが、中学生からはメディアと映像作品についての授業は大切ではないだろうか。日本の文化は文学だけではないのに、なぜか学校では映像について教えられない。教えにくさ、という問題があるのだろうが映像、メディアの科目は必要だとぼくは思う。
 

アニメに挑戦してみる

漫画は読者に挑戦する。

 前、ぼやき炉の5月の分に
  「自分はアニメが人生にとって足しになるようにしたい」
 という感じのことを書いていた。
 
 ぼくはアニメをただの娯楽だけの存在としてこのままずっと見ていきたくない。まだ14歳で全然、社会について知らない。たくさんの未来があるわけである。
 で、ぼくはこの人生全体で考えると、とても短い14年間のうちにアニメという作品に深く触れた。一種の運命とかかもしれない。
 だからこそ、その大切な運命を何の考えも持たず見ていくのはとてももったいない。非常にもったいなく感じる。年をとれば自然にアニメの魅力をかなり見出せるのかもしれない。だけどそこまでの期間がやはりもったいなく感じる。
 ハルヒの「笹の葉ラプソディ」を見るとき、自分が見出せる魅力を精一杯出してみた。結果、とてつもなく楽しかったのである。確かにあの話自体おもしろかったと思う。だけど、ぼくがあのとき感じた楽しさは作品自体の楽しさではなかったと思う。いままで味わったことのない楽しさであった。
 
  

本来、十の魅力がある作品を、一しか読み込めなかったら、それは読者の責任というべきである。



 ぼくはこれを一で終わらせたくない。他の人とは違う読み込みをして、十の魅力をいろんな作品でしてみたい。せっかくこの世界に入ったのだから精一杯楽しんでいきたいと思う。

  読者は漫画を評価する。漫画は読者に挑戦する。だから、漫画を読み、その内容を解き明かすということは、漫画と読者との真剣勝負だ。

 あるいは、漫画だけではなく、すべてのアートにいえることかもしれない。本当の意味で「鑑賞」するとは、おそらくそういうことである。



 ぼくは漫画については全然わからない。ただしアニメについてはそれなりにわかる。これからはアニメに挑戦していこうと思う。

誰もわからない ~オリジナルアニメの強み~

昨日は「けいおん!」関係の記事を書きます、と宣言していたのに書けませんでした。楽しみにしていた人すみません。

さて本日は嫌がらせのように「けいおん!」関係ではなく原作付きアニメとオリジナルアニメについて考えようと思います。

テレビアニメは川下のメディアである。

 皆さんご存知の通り、いま放送されているアニメの過半は原作付きです。つまり、小説なり漫画なりゲームなりの作品を映像に移し変えて製作する、というスタイルが採られている。はたしてそれは良いことなのかどうか?

 結論からいうと、「メリットは大きい。しかし、限界もある」という見方が正しいと思う。


原作付きアニメとか、オリジナルアニメとか

・オリジナル少数が業界にとって悪いのかどうか。ビジネス的には悪くないだろう。でも、オリジナル作品を作れる人間が減っていくというのが問題だと思う。今、オリジナルを作れるのは限られた人間しかいない。河森監督や谷口監督など結構少数。企画力がある人間が少ないんだろう。神山健治監督は押井塾で企画書を出す修行(?)をしていたらしいし、企画するクリエイティブな能力を鍛えられたんだろう。東のエデンって神山監督が通したものなのかな? さっき河森監督と谷口監督の名前を出したのは、二人とも独創的な作品を作れる人達だし、作品を仕掛ける力ももっているから。オリジナル作品が少なくなってしまうと、河森監督や谷口監督などのクリエイティブな力を持っている人材を育てる環境がなくなってしまうんじゃないのだろうか。チャンスが無くなってしまうわないのだろうか。それにプロデューサーだって(ry。オリジナルアニメが作れない業界の状態を改善した方がとは思うんですけど、このご時世そんなことも言ってられないよなとも思ったり。



それなりに売れたアニメはオリジナルだったり原作をかなり料理したものが多いような気がします。
なぜ売れるかというとやはりこれだな、と。
投げっぱなしという謎の残し方 ~制作側、消費側、作品のより良い関係~
オリジナルアニメは長期間持つ話題を作りやすいのです。なぜなら誰もこの先、物語がどう動くかわからないから。これがオリジナルアニメの強みです。
原作があると、せっかくアニメで作られた伏線、謎が原作体験済みの視聴者によってネタばらしをしてしまい、未体験の人々はこの後の動きがわかってしまうのです。
これから物語がどう動くのかわからない環境で謎が出来ると、その作品について話しやすくなるのです。しかし原作がある場合では、原作未体験同士の人達で話していると、そこに体験済みの人がやってきて、謎の答えを言ってしまうのです。そこで長期間の話題は無くなってしまいます。
体験済みでも答えを言わない人はたくさんいます。というか、そちらの方が多いと思います。ですが一度、答えを知っている人が答えを話したら、どんどんと広がっていきます。
原作付きにはそのようなデメリットがあります。

ただ制作側としては原作付きの方が楽なんでしょう。
エヴァはオリジナルで謎、伏線を大量に入れて本当に誰にもわからないので話題が生まれた。
ハルヒは時系列をバラバラにして放送したので原作体験済みも楽しめるようになっていたのであんなに売れたんでしょう。

基本的には話題が生まれやすい作品が勝ちなんでしょう。
話題の内容は
1、ストーリーがおもしろい(わくわくどきどきするとか)
2、最後どうなるんだろう(謎、伏線含めて今後の予想)
3、キャラクターがかっこいい(かわいい、萌えなど)
4、作画の見せ方(カメラワーク、エフェクトの使い方など)
5、ダメな部分(これが一番話題を作るかもしれない)
こういう話ができるアニメが売れていっていると思う。そして制作側にとっては楽ではないだろうけど、オリジナルアニメにはこういうのが多く出来ると思う、
ただ問題なのは、楽ではないオリジナルアニメを作れる人が少なくなってきているということ。
そして、オリジナルアニメが作りにくい環境ができあがっていること。

おもしろくて売れる作品という制作側にも消費側にもうれしい作品を作り出すことがどんどん難しくなっている、と感じるこのごろ。
最近、王道物が流行っている気がするが、やっぱり閉鎖的な物を打ち破る人が制作側と消費側にたくさん必要。
「東のエデン」、「バスカッシュ」がそういう打ち破る物になることを期待(どっちも見ていないんだけども)。

ハルヒ、デスノートなどなど そんなに窓際に座りたいか

明日から時間的に厳しくなりそうだが、がんばって書いていこうと思う。
本日はこれ。

海外で話題!「なぜアニメ・マンガの主人公の席は窓際?」 そのナゾを解く! (無料動画 GyaO)

結構前から私は疑問に思っていたんで、考えて記事でも書こうかな、としていたんですけど先をこされました。
この記事ではアニメでのお約束ごと、として書かれています。私がおもしろいと思ったのは原作からすでに窓際にいることです。
私はデスノートの原作は読んだことはないので、ハルヒについてだけ話します。だいぶ前に原作を読んだんで間違ったことを言うかもしれません。

まず、主人公というのは物語の中心の存在です。モノを考えたりアクションを起こしたりする役割を持っているのですね。頬杖をついて外を眺めるというのは、モノを考えてハッと気づくことができる、そういう演出をしやすい、というのが挙げられます。

同じ演出面で言いますと、校庭にいる誰かを見つけたり、空に何かが浮かんでいるのが見えたり、さらには空から少女が降ってくる、といったような、物語の展開のきっかけとなる出来事を見ることができるんですね。それも、窓際に座る主人公の役割です。

また、これは窓際には限らないのですが、後ろの席のほうでは教室全体を見わたす、という行為が可能になります。別キャラが隠れて何かをしているところや、遅刻をしてコソコソ入ってくるシーンなど、教室全体の雰囲気を主人公の目線で見せることができるのです。



はっきり言うと、ここはキョンには当てはまらない。確かに頬杖して景色とか見ていそうなキョンだが、何かを見つけたりは無かった。
谷口が昔のハルヒについて話しているときだけ、ハルヒが何かをやっているところを見たと思うが、あれは階段だったり席替えしていないときに窓から見ていたと思う。
キョンの活躍の場は基本的に部室だったり外だったりするので、教室の窓際で大きな事件に関係することは無かったと思う。


さらにいうと、キャラを立てることが可能になります。たとえばハルヒのキョンのようにちょっと冷めた青年の場合、教室全体が盛り上がっているのになんだか自分だけは冷めている。そんな、傍観者のような視点を描くことが可能です。パーティーの壁際に近いですね。一歩引いた観察者といったキャラを作ることができるのです。

最後に、間の問題。たとえば別キャラが廊下からやってきて「おい!○○!」と言って扉を開けます。で、カツカツカツと近寄って何かアクションを起こすわけですが、そこで主人公の席が廊下側だと、そこまでの「間」が作る「何がおきるのだろう」という期待感がなくなってしまいます。



一つ目の奴はあると思う。教室が盛り上がる様なことは無かったと思うが、確かに傍観者のキャラが立てやすいと思う。
そうなるとハルヒは無意識で教室でおもしろいことが起こったとき、すぐわかりやすいように、一番裏の端っこに移動したかもしれない。そして、キョンも一緒に移動させたかもしれない。
二人そろって観察者になったのである。

二つ目は別キャラが近づくというより、ハルヒがつまらない教室から出て行くための助走みたいな感じになっていると思う。というよりSOS団のメンバーは、ハルヒ以外教室のドアで手招きをしていそうである。実際、そのような場面があったと思う。そしてキョンがだるそうにドアに向かうためにあると思う。
ドアとの席が離れているのはハルヒとキョンの教室から出るための助走のためだと思う。移動している間に仕草、表情、動作、心情が表せれる。


窓際にいる主人公は探せばたくさんいるのであろう。それも原作から。
文章を平面でとらえるのではなく、ちょっとした立体感を出したのがアニメだと思う。
アニメだけではなく原作にもお約束はある。
他人と話しやすいアニメだけではなく、原作について話し合うのもいいことだと思う。
そうするとアニメの話も楽しく、深くなる。
ただ原作を見ていない人だっているので注意が必要ですけどね。では。





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Author:和太鼓
あなたに純正のアニメを見てもらいたい。

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